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ラスベガスとギャンブル

<ラスベガスのカジノの起源・変遷など>

1829年、スペインの探検家アントニオ・アルミホによって発見されました。ネバダ砂漠の中にあって、この付近は窪んだ地形となっており、オアシスとなっていました。「ベガ」はスペイン語で「肥沃な谷」の意で、「ベガス」はその複数形です。これに女性定冠詞(複数形)を付けて「ラスベガス」としました。

第一のラスベガスの発展はゴールドラッシュです。

1850年後半、ラスベガスから北西に400Km離れたバージニアシティで金鉱が発見されました。西部はゴールドラッシュに沸き返り、一攫千金を求めて人々が押しかけました。その道中、宿泊したのがラスベガスであり、彼らは酒を飲みながら、わずかな持ち金を賭けてカードゲームを楽しんでいたそうです。これが、ギャンブルの街・ラスベガス誕生の瞬間と言われています。また中には、砂漠の中の貴重な中継点として定住する人も現れ、人口が増えて行きました。

1905年には、LAとソルトレイクシティを結ぶユニオン・パシフィック鉄道の開通に伴って、水の便の良いラスベガスは蒸気機関車の給水地となり、現在のダウンタウンに駅が造られました。これをきっかけに、街を訪れる人が急増しました。またこの年、ラスベガス町も誕生しました。そして、1911年にはラスベガス市になりました。

次に発展したのはアメリカの政策による影響です。

金鉱ブームも去った頃、1929年の株式大暴落に端を発した世界大恐慌が起こり、産業のないネバダ州では、カジノ産業を奨励し、税収確保の為1931年にカジノを正式に合法化しました。

ネバダ州では、それまでも何度かカジノの解禁・禁止が繰り返されて来ました。初めて合法化されたのは、1900年代初期でした。しかし、連邦政府の反ギャンブル法案のため、1910年にはギャンブルは非合法となってしまいました。非合法のギャンブルは繁栄を極め、ラスベガスはこの早い時期に名声を築き上げて行きました。1931年に解禁されてからは、現在まで継続しています。全米唯一のカジノ合法州となり、他州からの観光客や移住者増加を期待しました。

同時期にニューディール政策によってフーバーダムの建設が始まり、労働者の流入、水の確保、安価な電力の供給で、街は大きく発展しました。とは言え、当時はまだ、人口2万人の西部劇に出てくる様な街でした。

1940年代に入るとダムから得られる豊富な電力を利用して、ネバダ砂漠に軍事基地や核実験場が続々と建設され、その関係者が町に住むようにもなりました。

その後、ラスベガスの発展に大きく貢献したのはマフィアの存在でした。

こうした賑わいに動きに目を付けたのが、ニューヨークなどで暗躍していたマフィアでした。一度に巨額の金が動くカジノは、彼らにとって貴重な財源でもあったのです。

1946年、カジノ合法化以後、転機が訪れました。ラスベガスの歴史を変える一人の男が現れます。ニューヨークマフィアであったベンジャミン・シーゲルです。

1937年、ニューヨークマフィアであったベンジャミン・シーゲルは、西海岸統括のためにロサンゼルスに移住しました。

1944年任された駅周辺のダウンタウンのカジノの様子を見に行った帰り道、砂漠のど真ん中、ダウンタウンから約10km離れた場所(現在のホテル群)に、「ハリウッドの社交界を、そのままラスベガスへ持ってこよう」と思いつきます。砂漠のど真ん中のこの地に、カジノだけではない、すべてのエンターテインメントを盛り込んだ一大レジャー施設の建設を計画したのです。

そこでシーゲルが立ち上げたのが、ショーあり、アトラクションあり、ショッピングありの、現在のラスベガスホテルの原型ともいうべき、「フラミンゴ・ホテル」です。

ところがシーゲルが妥協を許さなかった為、当初100万ドルの予定だった建設資金が結局は600万ドルになりました。

こうして1946年オープンしました。豪華絢爛を売り物としましたが、一般の人々にはなかなか受け入れてもらえず、さらに開店資金もあっという間に底をつき、2ヵ月で休業することになったのです。

責任を追及されたシーゲルは、仲間のマフィアによって暗殺されました。ホテルの経営は仲間のマフィアの手に移りますが、皮肉なことに、シーゲルの死が話題になり、命を賭けてまで建設したホテルを一目見ようと大賑わいを見せ、多くの客が訪れることになりました。以来ラスベガスは、約30年もの間、マフィアの支配下に置かれることになりました。

なお、この「フラミンゴ」が現在もストリップの中心にあるフラミンゴです。その後、フラミンゴは多くの人の手に渡り、1971年にヒルトンの傘下に入りました。93年には開業当初の建物を全て壊して新築しました。現在のサブロビーには、当時のホテルの写真が、寂しく飾ってあります。彼はラスベガスの繁栄と共に「マフィアの資金源」という置き土産を残したのでした。

フラミンゴホテルがきっかけとなり、マフィアが続々とホテルを建設するようになりました。

それでもまだ、今日のような国際観光都市とは程遠い状態でした。40年代はごく限られた採鉱者や軍関係の兵士、それにダム関連の作業員たちがささやかにギャンブルを楽しむ程度の小さなカジノ都市にすぎませんでした。

そうした黎明期を抜け出し、ラスベガスが本格的に開花し始めたのは、デザートイン、サンズ、サハラ、リビエラなどが次々とオープンした 50年代に入ってからです。

さて、フラミンゴホテル誕生から20年後の1966年、この状況を一変させる男が現れます。航空、映画産業を中心とする一大グループを作り上げた実業家、ハワード・ヒューズです。歴史も浅く、発展途上だったラスベガスにアメリカンドリームを感じたヒューズは、航空会社TWAの売却で得た500億ドルもの資金でラスベガスのホテル買収を計画します。そして、マフィアの手から次々とホテルを買収していきました。

彼は、政治家との人脈を使い、1959年にネバダ州知事が、カジノに秩序を与える為に作った「ゲーム委員会」にも働きかけ、1969年カジノライセンス法を改正し、大手企業の参入を促しました。

このカジノライセンス法の改正と買収劇をきっかけに、他のホテルの経営者も次々とマフィアと手を切り、健全な経営になると共に、政府のマフィア撲滅運動で、金儲けがやり難くなったラスベガスを、マフィア自らが放棄し、それを期に、大手企業の進出で、次々とホテルが建設され、クリーンなラスベガスの誕生へとつながりました。

1980年代は、カジノ&ホテルの会計監査基準が一層厳しくなると共に、上場企業が株式市場のチェックを得た上で投資する様になると、完全にマフィアは撤退しました。

ラスベガスはロサンゼルスやハリウッドと近い距離にあることから、ハリウッドスターや芸能関係者がラスベガスの街の発展に大きく寄与しています。1950年から1990年までの間、アメリカは好景気と共に長い不景気を経験します。その時代の中で、ラスベガスには富と夢の時間を求める人が集まります。1970年代には、ラスベガスは初めての真の競争と向かい合うことになります。ニュージャージーのアトランティックシティーの台頭がそれです。この競争はラスベガスを現在の総合エンターテイメントタウンへと変貌させました。しかし、ラスベガスで繰り返される刹那的なギャンブルがラスベガスの町の原動力となり、とても健全とは言えない町として、世界中に知らされるイメージは、そのままでした。そのラスベガスのイメージを「ダーティなギャンブルの町」から「エンターテイメントの町」へと変えた立役者と言われているのがスティーブ・ウィンという実業家の存在です。彼は、全ての人が楽しめる究極のリゾートの実現を目指し、カジノはもちろんエンターテイメント、グルメなども楽しめるミラージュホテルを1989年に建設しました。

マフィアの影響が払拭されたことに伴い、投機ブームが起こり、より広い土地が必要になったこともあり市街地は南方に大きく拡張しました。また、1980年代の末頃からの巨大テーマホテルブームが起こったことで、このホテルを皮切りに、次々とホテルが建設されることになりました。そして、趣向を凝らしたホテルの建設ラッシュが続いたのでした。

ホテルが多い理由のひとつとして、一定規模以上のカジノの建設は、客室数 200 室以上のホテルの付帯施設としてしか認可されないことも挙げられます。

次々と登場したテーマパーク型巨大ホテル群で、その出現はラスベガスをギャンブルの街から、家族ぐるみで楽しめる総合エンターテインメントシティーへと姿を変え、ショッピング、ナイトショー、レストランなどを含んだ総合エンターテイメント都市として発展させました。ダウンタウンエリアにダウンタウン商工会が7,000万ドルという巨額の費用を投じて、フリーモント・ストリートの大改修工事に取り掛かり、199512月頭上に210万個の電球を天井にちりばめた電飾アーケードを完成させています。ここはThe Fremont Street Experienceとして24時間の歩行者天国があり、「世界一華やかなストリート」と世界中のラスベガスファンから呼ばれています(現在は、210万個の電球は、1,250万個の発光ダイオードに変わり、画面もダイナミックなものへと変わっています)。

 

<現状、問題点など>

ラスベガスは、先程書いたように、ギャンブルの町から、家族ぐるみで楽しめる、総合エンターテイメントシティへと変わって行きました。基本的にはその流れに変わりはありませんが、90年代後半に入ってから 「子供を相手にしていたのでは商売にならない」というカジノホテルが増え始め、しばらく続いてきたファミリー路線の見直し機運が高まりました。その証拠に、無料や格安料金で提供されてきた子供向けアトラクション施設を縮小するホテルが急増し、また残された施設においてもその料金は続々と値上げされました。代わりに増えたのが、ナイトクラブ、高級ショッピングモール、カリスマシェフなどによる高級レストラン、高層コンドミニアムなどで、近年は確実に大人向けの高級総合アミューズメントシティを目指す方向に変化しており、現在まで、そのための大規模な高級コンドミニアムを中核とする複合商業施設などの建設工事が、いたるところで進められました。

その一方では、カジノやテーマパークといったエンターテインメント関連とはまったく別に、ラスベガスは最近新たにコンベンション都市としても脚光を浴びています。

以前からトレードショーや国際見本市などが多い都市でしたが、90年代以降のホテルの建設ラッシュにともなう宿泊施設の急増が、世界的規模のコンベンションの誘致に拍車をかけており、現在ラスベガスでは毎週のように大きなビジネスショーや国際見本市が開催されています。開催イベント数においても参加人数においても、すでに世界一のコンベンション都市となっています。

また会場スペースの部分においても、ラスベガスコンベンションセンター、サンズエキスポ、マンダレイベイコンベンションセンター、ワールドマーケットセンターなどの巨大施設、さらには各ホテル内にある大型ボールルームなど、すでにその総床面積は世界最大で、その上、複数の大型コンベンション施設の新設が計画されるなど、拡大の勢いはとどまるところを知りません。

ラスベガスの強みは、宿泊施設とコンベンション施設の距離が非常に近いこと、市内と空港が近いという利便性、エンターテインメント性が高いため人が集まりやすいことなど、都市構造の有利性などに起因しています。

コンベンションで人が集まれば結果としてカジノ、ホテル、レストランなどの収益も伸びることになり、地元経済が活性化することから、ラスベガスでは官民一体となってこのコンベンション誘致に力を入れており、この分野の予算も世界一だと言われています。

こういった取り組みの根底にあるのは、ここが砂漠に生まれた街ということです。財政も、地域経済も観光客に依存している都市であり、観光客の増減はそのまま同市の経済に大きく影響して来ます。そのため集客は至上命題であり、カジノ関係者だけでなく行政や民間企業も「観光客誘致」のためにあくなき努力を続けているのです。ラスベガスの凄いところはこの課題に対し、アイデアと努力を街全体で取り組む点にあります。

例えば、ラスベガスには、州法で定められた「自治組織による観光局」があります。行政と市民によって構成される運営委員会によって運営されており、世界中にラスベガスをアピールして観光客の誘致や、国際会議などのコンベンションの誘致を行っています。また、ラスベガスを訪れる人に情報提供するような細かいサービスも行っています。この運営資金は、ホテルの利用税と、コンベンションの使用料金でまかなわれており、業績が上がればあがるほど運営資金が潤沢になり、さらに緻密な集客戦略をとりおこなうことが出来る仕組みとなっているのです。

観光を産業の基盤としている地域において、訪れる観光客の維持・拡大が何よりも重要な課題ですが、ラスベガスの観光客誘致活動は、非常に高いレベルのアイデアと実行力で行われています。現在ラスベガスには総数13万室をこえるホテルがあり、年間90%の稼働率を誇っています。それを支えるのが総客数の80%を超えると言われているリピーターによるものです。データによるとリピーター客は毎年一回以上訪れるという計算になると言われています。これは「常に新しい魅力を創造するという」ことにこだわり続けているから出来ることです。

2008年現在、人口200万人を超えるまでに成長し、世界中から年間約3,900万の人が訪れる世界でも有数の観光都市に成長しました。その目的を見ると、観光75%、ビジネス15%です。それに比べカジノだけを純粋に求めてやってくる人は全体の6%に過ぎません。では、カジノがどのように売り上げを出しているのかというと87%の人が滞在中に一度はカジノを楽しみ、半数の人がショーにも顔を出すというデータがあります。平均的な観光客は12時間ほどカジノを楽しみ、あとはいろいろな楽しみに費やすというような行動パターンだそうです。

このような形でもカジノの売り上げは年間8,000億円に上り、ネバダ州の税収の半分以上を稼ぎ出しています。どのような目的で訪れた人でも9割近い人が、わずかなお金でカジノに手を出します。大金ではなく、小額の金額を賭ける人が多いのが事実なのです。

そのためラスベガスでは人をどのようにして集めるかということが最優先課題となって来ます。それこそ、あらゆる方法で集客アップのために全力を挙げて取り組んでいます。その一例が先程書いたコンベンションです。年間に数百も開催され、500万人以上を集めます。051月に行われた世界最大の家電見本市には、2500社が出展し、115カ国から業界マスコミ関係者だけで14万人以上が集まりました。このようなコンベンションが、毎日のように開催されているので、ビジネス層もたくさんラスベガスを訪れます。これらの売り上げは03年で65億ドルにも達しています。彼らもビジネスが終わった後は、カジノやショーを楽しむので、直接売上げのほかに消費される金額は非常に大きなものになります。

もう一つ、ラスベガスの集客アップの方法として有名なものとして結婚式があります。ネバダ州の結婚手続きは全米で最も簡素なので、全米中、更には世界中からカップル、友人、家族などが集まって来ます。そのため教会の数も増え、ウエディングキャピタルとまで呼ばれるようになりました。

ラスベガスの集客方法はできることであればなんでも挑戦してみるという精神の元に形作られています。このほかにも人気のあるカーレースの誘致など各世代の関心事や、いろんな趣味のファンの真理を捉えて、特定層が集まる可能性のあるものを何でも実施しています。

さらに身体障害者も健常者と同様にラスベガスという街で楽しめるように、あらゆるサービスが行われています。例えば、空港からホテルまでは、昇降機付きのシャトルバスが4ドル以下で利用できます。ホテルには身障者向けの部屋が用意されておりバスルームには移動可能なシャワー、いすを組み込んだバスタブなど使いやすい施設が整えられています。プールに主昇降機が設置されていて、車椅子のままビーチに入ることもできるようになっています。火事の中にも車椅子に座ったまま参加できる、スロットゲームや、カジノテーブルが存在しています。展示や文字を大きくしたビンゴカードや、教育を受けた手話が話せるスタッフも常駐して、健常者と同様に楽しめるような空間作りを行っています。ショーを見る際には特別な聴力を補助する機械を貸し出し、観光局にも専門の担当者が常駐して滞在中のあらゆる要望に応じることができる体制が整えられています。また身障者のための器具のレンタル会社、常時ケアが必要な身体障害者や慢性病の人のためのケア・サービス会社もあります。

以上のように、ラスベガスは広大な土地の重要性を認識し、新しいものを開拓し、飽きられてはお仕舞いなので、変化を恐れない経営スタイルを取ってきました。

ただ、インターネットの普及に伴い、製品と人が一堂に会する国際見本市のようなものは今後斜陽化するのではないかという見方もあり、コンベンション都市としてのラスベガスがどこまで発展するかは先行き不透明です。

いずれにせよラスベガスは全米で最も発展著しい急成長都市として経済も人口も急拡大を続けていることは事実で、観光業界のみならずあらゆる業界から常にその動きが注目されています。

とは言え、これまで不況時でも海外からの観光客を集め、成長を謳歌し、子供向け遊戯施設やミュージカルなどのショーを充実させて、ファミリー層取り込みにも成功。毎年オープンする豪華カジノホテルが、さらに多くの観光客を呼び込む好循環を確立していましたラスベガスにも、不況が深刻な影響を及ぼして来ました。観光客は減り、ひっきりなしだった開発計画のストップも見られます。

原因は、米サブプライムローン問題を発端とする世界同時不況、それに続く米証券大手リーマン・ブラザーズが破綻したことです。

0811月までの1年間でカジノホテルとギャンブル関連だけで5,000人以上が失業。11月の失業率は過去20年間で最悪の7.9%を記録し、全米の6.8%を上回りました。景気回復の見通しが立たない中、解雇された従業員らは途方に暮れているということです。

ここは、景気の回復とアイデアと努力を街全体で取り組む姿勢に注目したいと思います。