日本におけるギャンブルの歴史
<賭博の始まり>
わが国でもっとも古い賭博は、「日本書紀」にその記録があります。西暦685年、天武天皇の時代です。
そして、この時行われたのが、「双六」です。これは、今、皆さんが思い描く双六ではなく、『盤双六』という、約30cm~40cmくらいの双六盤に向かい合って、二人で勝負する双六です。
白と黒のコマを15ずつ持ち、竹筒に入った2個のサイコロを振り、出た目の数だけコマを進め、早く相手の陣地にたどり着いたほうが勝ちというルールでした。現代のバックギャモンです。
おそらく、宮中で大流行したものと思われます。
天武天皇が686年に亡くなり、その後を継いだ妻の持統天皇は、夫の死後から、わずか3年後の689年に「双六禁止令」を出しています。ちなみにこの禁止令は、その後も度々出されています。
平安初期には、庶民階級にも広く浸透して行き、博徒が発生していたと言われています。
やがて、室町時代の頃には、この盤双六は完全にバクチと化してしまいました。
このように古くから博戯は庶民から支配階級を含めて流行を極めました。博打打ちは一芸に秀でる職人として市民権を得ていました。
江戸時代前期には、博徒が次第に組織化され、江戸時代中期になると、それ以前の半農博徒とか宿場博徒、中間博徒などと呼ばれていたものが、階梯的組織をもつ集団を形成していったといわれています。
当時彼らは、長脇差で武装し幕府や藩の取締りに反抗しながら、男伊達、侠客などの任侠集団を自称し、口入れや火消などを表看板に賭博をもって生活しました。
賭博の方も、双六の道具の一部であったサイコロのみで賭ける「チョボイチ」、「丁半」賭博など賽賭博が中心であったようです。
盤双六ですが江戸中期までは広く遊ばれていましたが、後期には消滅してしまいました。
江戸時代後期になると、幕府や武士階級の力が弱まるにつれ、都市や農村を問わず、常設賭博場が各地に出現し、博徒集団も、親分子分の擬制の血縁関係で更に強く組織化され、槍や鉄砲などで重武装化した多くの集団が各地で跳梁し、手のつけられないような状態になったと言われています。
明治維新以降も博徒集団は依然として存続し、維新直後こそ新体制の障害になるものとして、博徒の活動は強制的に抑えられましたが、明治10年頃になると政府の取締りもゆるみ、博徒の活動が大変盛んになりました。
その後、明治17年に太政官布告による「賭博犯処分規則」が施行されて、取締が強化され、「大刈込」といわれた博徒の大量検挙なども行われました。しかし、明治22年に「賭博犯処分規則」が廃止されるとともに、博徒集団は息を吹き返し、大規模な縄張り争いを繰り返すなど、その活動は再び降盛となりました。
また、その頃は「オイチョカブ」、「ホンビキ」などの花札賭博が大流行した時期でもありました。
その後、日清、日露の戦争を経て、我が国の社会経済の急激な発展は、博徒稼業の質を変化させ、賭博専業の博徒から、歓楽街、興業界、土建業、港湾荷役、炭鉱地区等に進出する複雑な形態に移って行きましたが、賭博を本業とするその本質には変化はなかったわけです。
また、彼らは一方では、当時の右翼政治活動との繋りを強め、時の政治に癒着しながら、組織の存続強化を図って行きました。
ところが、昭和20年代の戦後の混乱期になると暴力集団として、青少年不良集団である「愚連隊」が出現し、それまでの博徒、的屋などの利権が荒らされるようになり、これら新・旧勢力間の利権をめぐる対立抗争が激化する一方、組織の離合集散の結果、渾然として、各々の組織的色分けが次第につかなくなって行きました。
また、同時に、各々の組織は利益になるものは何でもするようになり、現在では、賭博を本業とする暴力団はほとんど見当らなくなりました。
しかしながら、現在の暴力団にも賭博を稼業として嗜好する体質は濃厚に残っており、また、賭博は彼らの有力な資金源ともなっているところから、暴力団と賭博は、今でも切り離せないものとなっています。
江戸後期には幕府からの禁止令があるにもかかわらず人々は賭博に熱中し、「ばくち知らぬ者は野暮という」などと言われるほどでした。賭博を忌避する現代の倫理観は明治以降に植え付けられたもので、決して古代から受け継がれたものではありません。
<カルタ、花札の歴史>
カルタは16世紀半ば、ポルトガルからもたらされました。これを国産化したものが、天正かるたで、日本で最古のかるたです。安土・桃山時代のことでした。
やがて、日本風に変化して、江戸時代上期に、日本独自のうんすんかるたが現れました。
18世紀中後期、田沼意次が幕政の実権を握った時代、賭博かるたは空前の大ブームとなりました。それまで何度も出されていた禁令をかいくぐって、貴族から武士、庶民までがこれに打ち興じるようになったのです。
1787年、老中松平定信の「寛政の改革」が始まると、歌カルタ・いろはカルタ等の教育系かるた以外の賭博用かるたが全面禁止され、カルタの流行に終止符が打たれました。
これにより、天正カルタ、うんすんカルタを始め賭博に使用されたカルタは製造・販売を禁じられ、表面上姿を消すことになりました。
そんな状況の中19世紀初頭、それら全面禁止された賭博カルタに代わって、幕府の弾圧を避けるために巧みに転換し生み出されたのが、「花かるた(後の花札)」です。賭博かるたに付きものであった数標を表に出さず、それを花鳥風月と12ヶ月に託したものです。
1841年江戸藩政末期、水野忠邦による「天保の改革」が始まりました。早くも賭博に使われていた「花札」は役人の目に止まり、「江戸花札骨牌禁止令」発令されました。
1868年明治初年、新政府は幕府に続いて、花札も含む賭博用カルタの販売を禁止しました。
文明開化により西洋文化の流入し、この時期「西洋かるた(トランプ)」が輸入され人気に。西洋では、トランプは賭博に使用した場合は罰せられるが、遊戯用としてなら問題ないとされていました。
明治新政府はこれに倣い、花札も売買まで禁じることは不自然との考えから、1885年(明治18年)末で「花札」の禁令を解除し、発売が公に許されることになりました。
この解禁を機に、「花札」は庶民の間に急速に広まり、爆発的な流行を見せ始めました。
また、1889年には、他の禁止されていたカルタの禁令も解除、販売が再開されました。
明治政府は道徳教育を推し進めました。そのため享楽を罪悪視する環境が形成されて行きました。そして「愛国いろはカルタ」等国粋教育的なものが生み出されました。
また、「富国強兵策」が始まると、1902年(明治35年)、日本政府は戦費調達のため、(同時に大流行した花札の製造販売を抑制する意図もあり)「骨牌税法」を施行し、花札などに税金を課すことになりました。
これにより花札の小売価格は2倍に跳ね上がりました。これはカルタ業者にとって販売禁止令に等しいものでした。
京都を中心とした全国のかるた製造業者は課税に猛反対しましたが、政府の方針の前に聞き入れられず、京都だけで5千人ものかるた職人が失職しました。
この「骨牌税法」施行以降、全国のかるた業者は次々と店を閉めていき、地方の業者は、ほぼ全滅しました。更に1940年(昭和15年)、太平洋戦争中に出された「奢侈品製造販売制限規則」で国民の戦意高揚に効果のない、花札も含む遊興具は、厳しく販売制限されることになりました。
これによってかるた製造の本場であった関西地方の業者も致命的大打撃を受け、結局存続できたのは、京都に残った数件だけでした。
<手本引きの歴史>
最初に一から六の数字の書かれた表示札を親の前に並べて表示し、親の選んだ数字[目と言う]を順に親から見て右側に並べてゆくことで、親がどのようなサイクルでどのような目をひいているかを表示し、また、張り方はそれを次の勝負の推測に役立てるという賭博です。
現代ではあまり行われていません。その起源は古く、少なくとも江戸時代には宿場などで広く普及していたものと考えられます。昭和に入っても続けられていましたが、戦後は非合法賭博ということもあり、やくざの収入源ということで警察の取り締まりも強化されました。そのため若い世代に普及せず、平成に入るころからはかなり廃れました。
まだまだ盛んだった昭和40年代後半に東映の映画、「緋牡丹お竜シリーズ」で、藤純子が賭場の場面で行っていたのが手本引です。「手本引き」の簡易版に、きつねがあります。
<丁半の歴史>
これは賽賭博で、時代劇などで盆ゴザを前にヤクザが壺を振っている、あの賭博です。賽賭博の起源は賭博の起源と同義ですが、中世になると今昔物語に七半と四一半の記述が見られます。七半とは2個のサイコロの目の合計が7になれば賭金の半分をやりとりするもの、四一半は1と4の目が出た場合、賭金の半分をやりとりするものかと推定されています。江戸時代後半期になると賽賭博は丁半や大目小目が主流となりますが、中世に大流行した四一半がどのように変化したものかは明らかではありません。いずれにしても丁半は江戸時代に至って初めて現れたもののようです。丁半に似たものとして、四三(しそう)、四六(しろく)があります。
<ちんちろりんの歴史>
数人程度が車座になって、サイコロ3個と丼を用いて行います。名称はサイコロが丼に投じられたときに生じる音を擬したものです。中国伝来のもので、第二次世界大戦後に日本国内に広く普及した模様です。
<大目小目の歴史>
起源は四一半などの賽賭博から変化したものと推定されるが詳細は不明です。江戸時代後期、賭博が盛んだった時期に丁半と並んで最も流行した「遊び」です。基本のルールは、1個のサイコロを振って123が出れば小目、456が出れば大目で、そこに賭けていたものが配当を得る博打です。
<チョボーの歴史>
サイコロを使った博打です。チョボ一は樗蒲(ちょぼ)打ちが語源とする説があります。樗蒲の語は天平勝宝6年(754年)の官符にも見いだされ、古くから博打の総称として用いられていました。江戸時代中期、寛政の頃、江戸の文筆家の書に「博奕は天下のご禁制なるに、年毎の霜月酉の日は大鳥大明神の御祭礼とて千住浅草両所の社頭や其の路々所せくまで敷物をしき筵をはり、丁半樗蒲一(チョボいち)などと云う博奕の場所一里あまりも建連ぬ。」とあります。この頃にはすでに博打を生業とするものも多く輩出し、世間も『博奕知らぬ者は野暮という』と、博打をやらない者を馬鹿にしたそうです。
チョボ一と類似の博打は数多くあります。江戸後期に流行した「お花独楽」は独楽(コマ)の周囲が六面に区切ってあって、それぞれの面には芝居の登場人物の、お花、半七、お菊、幸助、おはつ、徳兵衛の名前を記し、別の賭け紙に同じ名前を記してその箇所に賭けるもので、当たれば四文が十六文になったといいます。
<キツネチョボの歴史>
サイコロを使った博打です。キツネチョボは基本的にチョボ一と同じゲームである。江戸時代から明治時代に流行したようですが、詳細は不明です。
<ヨイドの歴史>
サイコロを使った博打です。ヨイドは別名トオシクとも言います。3個のサイコロの目の呼び方からこの名があります。厳密にはトオシクとヨイドは別で、江戸時代の安政の頃より3個のサイコロの目に賭けるトオシクがあり、キツネから発達したものと思われます。これにカブの方法が加わったのが、ヨイドといわれます。すなわちトオシクは関東で発生し、関西にいたってヨイドとなったものらしいです。
このヨイドがさらに複雑進化したものにチイッパというものがあり、戦前ではこれをやる者は博打常習者とみなされたと言われます。
<四下の歴史>
四下は丁半とチョボ一を合わせたようなゲームです。発祥は江戸時代中期以降と推定されるが定かではありません。
<おいちょカブの歴史>
おいちょカブの語源は、ゲーム独特の数を表す語からきたもので、「おいちょ」は8、「カブ」は9を表す語です。もともと賭博用具であった「カルタ」は日本で「かるた」となってもやはり賭博用具でした。天正かるたはその後さまざまな形態に変化して行きます。かるた賭博は「メクリ系統」、「カブ系統」、「花かるた系統」の三大系統に分類されると言われています。カブは金吾かるたの系統でメクリの一分派または共同の始祖から分派したものと推定されています。
おいちょカブと似たものに関西で最近でも行われている京カブがあります。ルールの細部が少々異なりますが、基本的においちょカブと同じものであり、江戸中期には広く遊ばれていたようです。
<アトサキ(バッタまき)の歴史の歴史>
アトサキ(バッタまきとも呼ばれます)は花札賭博の一種です。よって江戸時代後期以降の賭博と思われます。西のホンビキ、東のアトサキと言われるほど、関東の賭場ではもっとも一般的な博打でした。
<コイコイの歴史>
コイコイは花合わせを応用したゲームなので、歴史は古くはありません。もっぱら庶民の間で遊ばれ、大正から昭和にかけて大流行しました。
<オールの歴史>
トランプを使うゲームなので比較的最近に成立したものと思われます。阿佐田哲也の小説にも登場するので、昭和中期以降のゲームだと思われます。小さな掛け金でも展開によっては場に大きな金が出るので、結構アツイ博打です。
<じゅんじゅんの歴史>
ポーカーとも花札とも異なるこのゲームが、どのような経緯で成立したものか定かではありません。戦後全国的に遊ばれるようになり、そのため地方やグループによって多くのローカルルールがあります。じゅんじゅんの名称の由来は手札の(10,10)からきたものと思われます。
<ドボンの歴史>
ドボンはトランプカードを使う遊びなので最近のものです。トランプゲームのエイトとページワンをミックスしたようなルールです。
<中央競馬の歴史>
日本で洋式競馬が行われたのは文久元年(1861年)横浜相生町においての、在留外国人によるレースが最初といわれています。翌文久2年には横浜レースクラブという団体が組織され、慶応2年に落成した根岸競馬場で春秋の2シーズンに競馬が開催されました。その時使われた馬は、日本馬・中国馬で距離も400~2,800mだったそうです。明治21年には同じく根岸競馬場で、馬券を発行した国内最初の競馬が開催されました。時代はまさに富国強兵を国策する近代日本、その後に行われた日清・日露戦争で日本産の軍馬が、力強さの面においてもスピードの面においても清・ロシアに非常に劣っていたことを痛感するに至りました。そこで「馬政三十年計画」として、馬産改良の名の下に馬資源の増大と資質の向上を図るため、施行者に補助金を交付して競馬を行わせることになりました。
ところが明治41年の新刑法により馬券発売が禁止となり、ようやく盛り上げかけてきた競馬に水をかける事態となりました。そこで大正12年、競馬法を制定し競馬を「軍馬の改良と増殖のための有効な役割」と位置づけることによって復活させることに成功しました。ただし馬券の最低価格を当時の富裕層に合わせるよう高額にし、また倍率も最高10倍までというような制限を設ける規定がなされていました。これによって競馬は完全に復活し、昭和7年には日本ダービーが創設され、また昭和11年にはそれまで施行主であった11の法人が日本競馬会という名で統一されるにいたり、昭和16年には戦前の競馬人気のピークを見るまでに成長しました。太平洋戦争中はさすがに馬券発売を伴う競馬は中止されましたが、軍馬に関する能力検定競走という形で競走は継続しました。
戦後となると昭和21年、日本の競馬は復活しました。ところが、日本競馬会のみが行う競馬開催は独占禁止法に触れるということで、当時のGHQの指示により、競馬開催は昭和23年に日本政府が施行主となることによって、続行されるようになりました。そして昭和29年、競馬の健全な発展を図って、馬の改良増殖とその他の畜産の振興に寄与することを目的として制定された「日本中央競馬会法」に基づいて、特殊法人日本中央競馬協会(JRA)が設立され、政府の業務を引き継ぎ、現在までに至っています。
<地方競馬>
地方競馬は中央競馬が洋式競馬を始まりとしているのに対し、日本の馬術の流れを汲んでいます。日本の馬術は神事に由来するもので、地方競馬は神社の祭典において奉納されてきた神事競馬を源としています。戦前の地方競馬は統括団体が帝国馬匹協会であり、1910年に競馬規定の改正により正式に実施は認められるものの、馬券発売を禁止されました。その農林内務省令をもって、馬券(投票権付き入場券)の販売も、1927年制定の地方競馬規則で制限付き(ほとんど黙認)ながら、認められています。
1939年に軍馬資源保護法の制定により、軍用保護馬の鍛錬を行うための鍛錬馬競走として馬券発売を正式に許可されるも、1943年に太平洋戦争の激化で地方競馬は停止させられます。そして戦後になると軍馬資源保護法が撤廃され、自らの根拠を失った地方競馬ですが、国営競馬以外禁止だったギャンブルが解放、公営競技として地方自治体管理のもと公営ギャンブルが認められ、1948年に「新競馬法」が制定されました。それが基礎となって昭和37年、民営の馬事関係団体から地方自治体に主催者が変わり、特殊法人地方競馬全国協会が設立され、現在までに至っています。
<競輪の歴史>
明治28年7月4日、横浜クリケットクラブのトラックで行われた自転車競技が、記録に残る上での日本初の自転車競走と言われています。その後、明治38年以降、新聞社各社が主催し、自転車業界が育てたノンプロ選手が宣伝のために走るという自転車競走が活発に行われるようになります。戦前はロードレースを中心に盛んに行われていました。
競輪誕生のいきさつは、元満州国官吏の海老澤清と、久留米連隊に所属し、後にGHQで働くことになる元陸軍大尉の倉茂貞助の2人が、東京の有楽町に「国際スポーツ株式会社」を設立したことに始まります。
当初は第二次世界大戦敗戦に伴う大陸や南方からの引揚者に、宝くじの利益をもとに住宅建設構想を練っていた海老澤の思惑と、湘南海岸に一大レジャーランドの建設を構想し、世界屈指の観光地とする構想を描いていた倉茂の思惑がそれぞれありましたが、海老澤が構想を描いていた「住宅建設宝くじ」を取り入れる形で、「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分として、戦前は日本各地で人気を博していた自転車レースを競馬に倣って賭けの対象にし、その収益金をもとに戦後復興に役立てることはできないものかと考え出されたのが後の競輪でした。
2人は、後に日本自転車振興会連合会会長となる、当時は日本社会党所属の代議士だった林大作と出会うことになります。林は2人の提案を気に入り、その話を日本社会党委員長でもあった、片山哲内閣総理大臣に提言したところ、「それは面白い」と乗り気になり、やがて社会党の中央執行委員会も同意して法案作りへと進むことになりました。
昭和23年6月26日に衆議院本会議で可決し、同年7月1日、自転車競技法は参議院でも可決し成立。同年8月1日より施行されることになりました。
昭和23年10月に第3回国民体育大会が福岡県で開催されることとなりましたが、莫大な経費が嵩む自転車競技場の建設には、県内のどの自治体も及び腰であり、自転車競技の開催が危ぶまれるという事態に陥りました。これを回避すべく、小倉市が「人気種目の野球を小倉市で開催する」ということを条件に、抱き合わせする形で自転車競技場の建設に名乗りを挙げたのでした。
その後、自治体の戦後復興費用捻出および自転車産業の発展を目的として自転車競技法が昭和23年8月に成立し、同年11月20日、国体会場でもあった小倉競輪場において第1回の競輪競走が開催され、ここに競輪が誕生しました。
ノウハウもなく全てが手探りの状態で始められた小倉競輪は、いきなり赤字となる可能性もあり、税収が殆どなく職員に支払える給料もままならなかった時代では、正に競輪開催そのものが賭けであったといいます。
ただ予想に反し競輪は大好評をもって迎えられ、競輪ブームは次第に全国へと拡大していき、各地でも競輪が開催されて行きます。しかし開催者が不慣れであった点、選手へのルールや理念の教育の不足、GHQが全国的な運営母体を認めなかった点などから運営の不手際が生じ一時は中止に追い込まれるなど波乱の歴史を持ちます。
競輪が誕生した昭和23年当時、国営競馬(現在のJRA)の控除率(寺銭)が34.5%であったのに対し、競輪の控除率は25%と低く抑えられました。そうした背景も手伝って、国営競馬が不振をかこつ状態だったのに対し、競輪は爆発的な人気を博すようになりました。
しかし、その一方で、客が自転車競技の特性を理解しきれていなかったという背景も手伝い、しばし暴動事件も発生していました。とりわけ大掛かりな事件となったのは1950年9月に発生した鳴尾事件は、警官の威嚇射撃によって客が1人死亡する事態となったばかりか、最後には滞駐米軍のMPを出動させて漸く収拾させたほどでした。しかもこの事件がきっかけとなり、以後3ヶ月間の競輪開催全面自粛という事態となったばかりか、国会でも競輪廃止論議が巻き起こることになりました。さらにこの事件は、全国紙の新聞社が相次いで競輪へのネガティブ・キャンペーンを行っていくことにも繋がりました。また、その後も、1959年の松戸事件、1960年の西武園事件、1968年の川崎事件など、大掛かりな暴動事件が、しばしば発生しました。
1955年、当時の大阪府知事であった赤間文三が、世論の反発が大きいため、これ以上競輪の開催は困難という理由で、府営で開催していた住之江競輪場、豊中競輪場の廃止を表明しました。そして豊中は同年に廃止されました。住之江はかろうじて開催は続けられたものの、1964年に事実上の廃止となりました。加えて大阪市もまた、赤間のこの発言に強い影響を受けて、大阪中央競輪場を1962年限りで廃止することを決めました。
このことは後に、競輪場最大の売り上げを誇り、当時、「競輪のメッカ」とも称されていた後楽園競輪場の休止へと繋がっていくことになりました。
2007年6月13日に公布された自転車競技法及び小型自動車競走法の一部を改正する法律により、競輪を統括していた「日本自転車振興会」とオートレースを統括していた「日本小型自動車振興会」は、2008年4月1日をもって財団法人「JKA」に統合されました。なおそれぞれの下部団体となる地域ごとの自転車競技会は「財団法人日本自転車競技会」に統合され、地域ごとの小型自動車競走会は財団法人に移行しました。
<競艇の歴史>
昭和6年に第1回全日本モーターボート選手権大会が隅田川で開催されましたが、これはアマチュアレースでした。戦後昭和25年に神奈川県逗子海岸と江戸川で日米対抗のモーターボートレースが開催され、これがベースになって現在の競艇が生まれました。
当初は、造船関係の産業を振興すること等を目的として、昭和27年から実施されました。
昭和27年4月、長崎県の大村競艇場で初めて競艇が開催された。しかしこれは、試験的なケースでした。ウォーターサーキットとしての公認第1号は昭和27年7月4日よりレースを開催した三重県の津競艇場、第2号が滋賀県のびわこ競艇場でした。なお、この年開催されたのは、大村競艇場・津競艇場・芦屋競艇場・若松競艇場・児島競艇場・丸亀競艇場・尼崎競艇場・びわこ競艇場の8ヶ所でした。
<オートレース>
明治43年、東京上野の不忍池で行われた自転車競走の大会で、余興として行われたのが、日本初のモーターサイクルレースです。
昭和10年、多摩川スピードウェイが開設され、周長1,100mの簡易舗装コースにて開催されたオートバイレースにて、5,000人もの観衆を集めました。昭和14年、第二次世界大戦でここも閉鎖されましたが、昭和24年のオートバイレースの復活し、現在へとつながっています。
昭和25年には、800mのダートコースが船橋オートに開設され、10月29日に初の車券付き競走が実施されました。また、同年11月16日、ハンデが採用され、以後のハンデ戦のレーススタイルが定着しました。
当時は、船橋競馬場の馬場の中に、1周800mの俗に言うダートの走路が作られ、行われていました。
昭和27年2月1日、川口でオート専用のレース場が出来ました。ただ、当時は船橋、川口オートともに4輪車がメーンで、現在の2輪車は前座の存在だったそうです。
昭和29年、大井オートの誕生し、今までのダートコースの不安定な路面事故でファンの信用を失いかけていた問題を払拭し、周長 500mの舗装走路のレース場として開設しました。
昭和40年3月、川口にて第1回日本選手権オートレース、5月には飯塚にて第1回オールスターがそれぞれ開催されました。
昭和42年、全レース場が周長500mの舗装走路に統一されました。
昭和50年、一人一車制(勝ち上がり制)が導入されました。
昭和51年、昭和48年に廃止された大井オートが移転の形で、伊勢崎オートが開設されました。
昭和59年、ランク制導入し、翌年、ランク制を選手あっせんに適用しました。
平成元年、伊勢崎にてナイターレースが、開催されました。また、同年、スタートタイミング確認の為に、機会発送システムを導入しました。
平成3年9月1日、電話投票が導入されました。
平成5年、一級乗り全選手のセア(AR600)への一斉乗り換えが行われました。
平成7年、デビューの24期生から新人が乗る2級車もセアジュニアに切り換えられ、単一機種による競走が実現しました。
平成9年9月15日、CS中継が開始されました。
平成10年4月11日、8車8枠制が導入されました。
平成17年8月2日、競走成績によるランク制(S級・A級・B級)を全国ランク制へ移行しました。
平成18年4月1日、船橋オートレース場、浜松オートレース場、平成19年2月1日、山陽オートレース場がそれぞれ民間委託されました。
平成20年4月1日、日本小型自動車振興会が解散し、日本自転車振興会と統合され、「財団法人JKA」となりました。
<宝くじ>
当せん金付証票法に基づき発行される富くじを宝くじと言います。
その起源は、約380年前の江戸時代初期。摂津箕面(現在の大阪府)の瀧安寺で、正月の元旦から7日までに参詣した善男善女が、自分の名前を書いた木札を唐びつの中に入れ、7日の日に寺僧がキリで3回突き、3人の“当せん者”を選びだし、福運の“お守り”を授けたのが起こりとされています。
瀧安寺の富会(とみえ)は、ただ、当せん者にお守りを授けるだけでしたが、その後は、次第に金銭と結びつき“富くじ”として町にはんらんするようになりました。そのため幕府は、1692年、禁令を出しました。しかし、その後も寺社にだけは、修復費用調達の一方法として、“富くじ”の発売を許しました。幕府公認の富くじも、その後1842年の「天保の改革」によって禁止され、明治になっても、1868年の「太政官布告」によって、きびしく禁じられました。
天保の改革以来、日本では富くじは発売されませんでしたが、1945年(昭和20年)7月、政府は浮動購買力を吸収して軍事費の調達をはかるため、1枚10円で1等10万円が当たる富くじ“勝札”を発売しました。しかし、抽せん日を待たず終戦となってしまいました。戦後の激しいインフレ防止のため浮動購買力吸収の必要性が大きくなったので、政府は、同年10月、“宝くじ”という名前で「政府第l回宝籤」を発売することになりました。
さらに戦災によって荒廃した地方自治体の復興資金調達をはかるため、各都道府県が独自で宝くじを発売できることとなり、昭和21年12月に地方くじ第1号「福井県復興宝籤」が登場しました。政府くじは昭和29年に廃止され、その後は地方自治体が独自又は共同で発売する“地方くじ”のみになりました。
昭和29年の政府くじ廃止後、都道府県・市の宝くじは、より大きな規模でより魅力ある賞金条件の宝くじを発売するために、統廃合が行われました。そして、昭和34年4月までに、現在のような全国自治宝くじ、東京都宝くじ、関東・中部・東北自治宝くじ、近畿宝くじ、西日本宝くじの5つのブロックの原型ができました。
なおジャンボ宝くじと呼ばれるようになったのは、昭和54年のサマージャンボ宝くじ(第151回全国自治宝くじ)からです。昭和59年2月に発売の第197回全国自治宝くじは、国土緑化推進運動の一環の「緑化宝くじ」として登場しました。この緑化宝くじは昭和61年から「グリーンジャンボ」という愛称となりました。
昭和50年代以降、新しいタイプの宝くじが次々と登場しました。当せん確率の高さが魅力の宝くじや車や旅行を賞品とする宝くじなど賞金条件の多様化がはかられました。また、インスタントくじ、イベント宝くじ、数字選択式宝くじ(ナンバーズ)といった新しい種類の宝くじも誕生しました。
全国自治宝くじが誕生30周年を記念して昭和59年11月に発売の第205回全国自治宝くじは、買ったその場で“当たり”“はずれ”がわかり、当せん金の換金もすぐにできるインスタントくじでした。「ラッキー7(セブン)」という愛称で、1等は100万円。そのスピード性とゲーム性が大好評でした。その後も発売され、61年からは愛称を「ラッキー3(さん)」としました。発売回数も次第に増え、種類も多様化し、全てのブロック宝くじでも発売されるようになりました。
平成13年6月には従来のインスタントくじに新しい印刷方法を採用したスクラッチが登場しました。
わが国の宝くじは、ジャンボ宝くじに代表される普通くじを中心に発展してきましたが、多様化する宝くじへのニーズに応えるため、欧米で主流となっている数字選択式宝くじについて、どのようにわが国でとりいれたらよいのかが研究されてきました。こうして平成6年10月にわが国で最初の数字選択式宝くじ「ナンバーズ」が誕生しました。続いて平成11年4月には「ミニロト」、さらに12年10月には「ロト6」の発売を開始。ロト6では、当せん金の繰り越しが行われる「キャリーオーバー制」が宝くじ史上初めて導入されました。また、平成16年7月1日からはナンバーズの抽せんが月曜日~金曜日の毎日となり、話題を呼びました。
また、totoというスポーツ振興くじもありますが、こちらは、監督省庁が文部科学省(宝くじは総務省)となります。2001年のJリーグ開幕からその歴史をスタートさせました。目的はスポーツ振興です。
<パチンコの歴史>
大正9年にアメリカから持ち込まれたバカテル(日本名:コリントゲーム)のつくりを真似たものがパチンコ文化の始まりです。
そして、昭和初期に名古屋で日本初のパチンコ店がオープンしました。
パチンコはこの当時から急激に一般市民の人気を得て、全国にパチンコホールは瞬く間に広がり、それとともに一般市民のパチンコに対する認知度は高まる一方でした。
パチンコホールが急速に伸びた昭和初期ですが、第二次世界大戦とともに物資や娯楽の禁止令が相次ぎ、昭和12年には戦時特別措置令で新規営業を禁止され 昭和17年には戦時対策によりパチンコは全面禁止という形で、娯楽施設としてのパチンコは全国的に姿を消したのでした。
パチンコが世の中に再び現れたのは、昭和21年、名古屋でパチンコ機の製造再開されたことから始まります。
しかし当時はまだ、パチンコなどの娯楽に対する法律というものがしっかりと決められておらず、昭和23年そういった風俗営業に対する風紀をしっかりとしようという世論から、風俗営業取締法が施行されました。
パチンコは同法に基づく都道府県条例で許可営業になり、貸玉料金1個1円と決まることとなります(競馬法・自転車競技法が相次いで制定され、日本のギャンブル元年)。
パチンコの根本となる法律が決まり、全国にパチンコホールが広がりを見せる中、パチンコ機の改良を望む声がユーザー達の間から上がりました。
そんな中、愛知県のパチンコ製造業者から画期的なパチンコ台が開発されました。風車をとりつけた釘の少ないパチンコ台が開発されたのです。
パチンコ台として、このシステムは正村ゲージと呼ばれ、今現在全国に300万台あるといわれているパチンコ台の釘は、全てこの正村ゲージが基準となった、釘や風車の配置としてパチンコホールでは欠かせない、パチンコ産業全体の宝として今も重宝されています。
パチンコ台が、正村ゲージで大きく娯楽性を増したのですが、正村さんは特許をとらなかったのが、今日のパチンコ産業をここまで大きくさせた一因です。
パチンコ台の命とまで言われる釘というのは、この正村ゲージの頃から急激に進化していくこととなるのです。
パチンコ産業が、こうして正村ゲージと法律の制定で確実な基盤を元として、確実に庶民の間に定着していきました。
パチンコ台はこれから娯楽としてではなく、ギャンブル性、より射幸性の高いものへと移り変わっていくのです。
パチンコ台はこの昭和20年当時、ユーザー自身の手でパチンコ玉を入れ、手でレバーを引いて一発一発パチンコ玉を弾くという方法がとられていました。
しかしこれは疲れる作業であり、パチンコホール側としても、ユーザーの打つ速度によって店の売り上げが変わってしまうことから、常に一定の売り上げを目標にすることが難しく、パチンコ台の仕様を自動である程度打ち出してくれる形に変更したがっていました。
このような中、パチンコ台製造業者は昭和27年、オール20連発式(機関銃式・循環式)の開発に成功しました。
パチンコ台から発射されるパチンコ玉が自動で、しかも20発も一度に発射できることにより、よりユーザーは楽になり、またパチンコホール側としても より多くのパチンコ玉を打ち出してくれることから売り上げが急激に伸びました。
パチンコ業界は、この正村ゲージから循環式の開発で、第1期黄金時代の到来となりました。
パチンコは、この時代全国的な一般大衆娯楽として絶大なる支持を得ていたのですが、昭和29年風俗営業取締法の一部改正で、3号営業の追加規定として法律に初めて「ぱちんこ」の名称が登場しました。
パチンコがこれくらいの知名度が上がったのと同時に、射幸心をあおりすぎるということで、連発式パチンコ機の禁止令が出されました。
パチンコ業界は、その当時、ものすごい好景気で波に乗っていましたが、パチンコが好景気だった背景に循環式の貢献度は高く、ユーザーもパチンコ台にいちいちパチンコ玉を1発ずついれるのはもうできないという人が多く、全国的に大打撃を破り、業界不況が到来しました。
パチンコ台はその当時、正村ゲージこそ画期的な方法でしたが、それ以外に売りとなるゲーム性がありませんでした。
昭和32年、パチンコ台にあるチャッカーに玉が入った場合、さらに多く出玉をだすという役物コミック機が、開発されました。
パチンコはこうしてだんだんと出玉の差別化を出しながら、特色のあるパチンコ台を開発していきました。
パチンコ台がさらに遊戯性として特化したものが、昭和35年登場した画期的な役物のチューリップです。これにより、パチンコは、一層人気娯楽として復帰し、第2期黄金時代の到来しました。
景品の上限額も、この当時パチンコ玉の貸し出し価格が、1玉2円と規定されており、景品額も上限が300円となっていました。
パチンコでは、この景品による換金を含めた部分での遊戯となっていましたので、換金額があがるのはパチンコユーザーにとって喜ばしいことでした。その一方、それだけパチンコ台の射幸心が高くなるということで、よりギャンブル性の高いパチンコ台が増えるというのも、問題となっていたのです。
パチンコホールの中には、郊外店舗で駐車場が設置されたホールなども現れ、遠方から電車以外で訪れる客に対してもパチンコをすることができるような環境をパチンコホール側が整えていきました。
パチンコホールは、現在でこそ巨大な駐車場を設け、パチンコの設置台数も1,000台を大きく上回るほどの規模の大型ホールが、いくつも存在します。しかし昭和43年当時、パチンコホールで設置ができるパチンコ台は500台までと制限されていました。駐車場も設置されている店もありましたが、都心部の特に繁華街にしかパチンコホールは存在せず、地方の郊外に住んでいる方には、パチンコというものは触れることのない遊戯でした。しかし、昭和47年ごろから郊外にホールを建設するパチンコ業者が増えてきました。
パチンコ業界がこうして全国津々浦々まで浸透して、日本の高度経済成長とともに貸し出し玉金額も1玉4円と現在と変わらなくなった昭和50年ごろ、パチンコ業界に震撼が走りました。
ドラム式フィーバー機の登場です。この機種の登場により1度大当たりすれば大量の出玉が保障されるという、今までにはなかった、画期的なシステムとして、より遊戯性の高い娯楽性の広がったパチンコとなったのです。
パチンコ業界にこのドラム式フィーバー機が登場したことにより、パチンコ業界全体が今までにない空前のブームとなりました。
パチンコがドラム式フィーバー機をさらにIC利用の役物が増加、入賞口の仕掛け飾りや盤面にデジタル装置を導入した超特電機が爆発的ヒットし、業界全体は3兆円規模の一大産業と成長したのです。
パチンコ台の中にはあまりにも射幸心をあおるフィーバー機も登場し、昭和57年フィーバータイプ機の30%自主規制という処置にまでつながったほどです。
パチンコ産業は、この自主規制の波もうけることなく、昭和58年にはパチンコホールの近代化・大型化・デラックス化が目立つようになり、新店ラッシュでパチンコホールが急増したのです。
パチンコ台はこうして一途レンチャンと呼ばれる射幸心の高い、よりギャンブル性の高いマシンとして過激になる一方でした。
そんな折に、以前からパチンコホールなどの経営管理に問題点が多いと「パチンコ疑惑」を衆議院予算委員会で集中審議されたことなどもあり、パチンコ産業全体のクリーン化を進める新システムが開発されました。
平成4年に出てきたCR機です。現在CR機がほとんどですが、このCR機によりパチンコ業界全体のイメージが、クリーンになってきたといっても過言ではないでしょう。
パチンコ業界がこのCR機を開発したと同時に、それまで世の中のパチンコホールで主流だったレンチャン機を規制、以後ホールに設置されることも、ほとんどなくなりました。
パチンコ業界は、このCR機の導入により、より女性や若者のユーザーが増え、パチンコ産業全体は30兆円産業として成長したのです。
パチンコ台の人気とともに、パチンコへののめり込みによる事故が多発したのもこの頃からで、適度な射幸性を考える日遊協検討委報告書も提出されました。
パチンコの射幸心の高さから日遊協、全日遊連、日工組、日電協の業界4団体による自主規制、射幸性の高いパチンコ機70万5,000台余を撤去へ踏み切ったのもこの時代です。
パチスロに関しては、日本で最初に稼動し始めたスロット台は、アメリカの占領軍に置かれていた沖縄への輸出でした。カジノで使用されていたスタートレバーが付いているだけのものでした。しかし、地元の警察が、賭博行為として現金を入れての遊戯を禁止し、メダルを使用する遊戯方法に変更されました。また、日本では娯楽として許可するために、打ち手側が遊戯に参加できることを条件としたのです。これにより現在のパチスロ機のような3枚のメダルを投入し、レバーを動かし、ボタンを押して3つの廻っているリールを止めるというシステムが確立されました。
<マージャンの歴史>
夏目漱石が、『満韓ところどころ』(1909年)に大連の見聞として、日本人では初めて麻雀に言及している。実際の牌が日本に伝わったのも明治末期で、大正中期以降はルール面において独自の変化を遂げつつ各地に広まって行ったともいうが、一般に認知されるようになったのは関東大震災の後である。神楽坂のカフェー・プランタンで文藝春秋の菊池寛らが麻雀に熱中し、次第に雑誌等にも取上げられるようになった。文芸春秋社では自ら麻雀牌を販売していたという。
太平洋戦争により中国伝来の麻雀は絶滅し、終戦後は進駐軍が持ち込んだアメリカ式の麻雀に取って代わられた。現在では中国ルールによる麻雀を中国麻雀と呼び、日本における麻雀と区別している。日本において麻雀の普及に貢献した人物は、戦前においては作家の菊池、戦後においては阿佐田哲也とされる。多くの大学生やサラリーマンが手軽な小遣い稼ぎ、コミュニケーションツールとして麻雀に親しんだ。
日本においては現在、家庭や雀荘で遊ばれるほか、コンピュータゲームやオンラインゲームでも定番のゲームとして人気がある。昭和期における麻雀ブームの時期と比較すると雀荘の数は減少傾向となり、麻雀専門誌の数も減少し人気にかげりが出ていることは否めないが、上述のようにコンピュータとの対戦やネットワークを通じた不特定の相手との対戦が可能になったことで、形を変えた人気を保っている。また、効率性を思考することや指先の運動により認知症の予防にも役立つと言われる。
麻雀におけるコンピュータゲームの普及は1975年頃からであるが、業務用で現在のものに近いゲームシステムが導入された、最初の麻雀コンピュータゲームは、1981年3月のジャンピューターであった。このゲームは一世を風靡し、ゲームセンターや喫茶店に数多く見ることができた。その後、対戦相手のコンピュータの画像を女性をモチーフとしプレイヤーが勝つ毎にその女性の衣服を脱がせるという、いわゆる「脱衣麻雀」のコンセプトが大当たりした。時は並行して裏ではポーカーゲーム同様、賭博筐体としても暗躍し「一発勝負のポーカーとコツコツ遊べる麻雀」という図式で流行したが、賭博喫茶の取り締まりも最近は厳しく存在自体が珍しい。
現在は麻雀格闘倶楽部などの通信機能を持たせ全国の人と対戦できる形のコンピュータゲームが普及しており、携帯麻雀ゲームでは『雀ナビ四人麻雀オンライン』が普及している。
<楊弓の歴史>
主に平安時代の公家が遊興で使用したといわれ、座ったままで行う正式な弓術であり、対戦式で的に当った点数で勝敗を争いました。後に江戸時代には、的屋が営む賭け事の射的遊技として庶民に楽しまれ、江戸時代の後期には、隆盛を極め、好ましくない風俗の側面まで持つようになりました。そして大正時代まで続いたと言われますが、江戸時代から大正に至るまで好ましくない賭博や風俗であるとされ、度々、規制や禁止がなされました。